2010年2月14日日曜日

感想『涼宮ハルヒの消失』

普段休みの日は引きこもっていることが多いので、これは良くないと思い映画を見てきました。
見た映画は表題の通り『涼宮ハルヒの消失』です。

うん。こんな日に一人で行ってきたのですよ、ワシは。
右の席も左の席もカップルらしかったのが、地味に「何やってるんだろ?」という気分を盛り上げてくれました。



それはさておき、『涼宮ハルヒの憂鬱』はTV版は2006年に放映された時は地方に住んでいて放映されず、2009年もなぜかその頃テレビ東京の写りが悪くほとんど見ることができませんでした。
最悪、『消失』に繋がる『笹の葉ラプソディ』だけでも見ておきたかったのですけどね。

とはいえ、原作小説は読んでいて話の内容は理解しているので、問題はありませんでした。
ストーリーは、原作から特に変更もありませんでしたし。

ただし、途中で我慢できずにトイレに立ってしまったため、見ることができなかった部分があったのが、個人的には失敗でしたが。



内容に関していうと、「あぁやっぱりこれはTVシリーズとして放映できないな」と感じました。

理由は、2008年6月8日に起きた秋葉原の通り魔事件。

この事件の影響でしょう。
ナイフを使ったシーンに関しては、世相としてもTVで放映しにくくなっていると感じます。

しかもナイフを振るうだけでなく、実際に刺すシーンが出てくる『消失』ではなおさらです。
そのため、TVで放映せずに映画にしたのでしょう。


しかしだからこそ、映画にしたことでそのシーンに力を入れて描写した印象を受けます。

果物ナイフのような軽い印象ではなく、ダガーナイフという充分に人を殺傷できる刃物の物々しさ。
そのナイフが実際に人に突き刺さる場面。
刺したナイフからしたたり落ちる血と、そのナイフを振るうことによって生じる血しぶき。
刺された傷からどんどん地面に広がっていく血液。

その描写は、人が一人死に得ることを表していました。

それを一切の妥協なく、表現していたのです。
TVだとぼかすであろう場面を、映画にしたことで思う存分描写していました。


はっきり言って、ここまですることは予想外でした。

原作小説で受けた印象よりもこの映画での印象の方が、ナイフで刺されるということが、より重大なことに感じられたほどです。
冗談などではなく、本当に「死にかけた」という言葉がしっくり来る内容でした。



さて、ではなぜこの「死にかけた」ということをここまで描画したのでしょう。

それを考えると、この『消失』というエピソード自体が主人公たるキョンにとって転機となる節目だったからだと思います。

キョンはSOS団の中で唯一なんの特殊能力もない一般人であり、また物語の語り手ということもあります。
これまでのその立ち位置は、物語の担い手でありながら、極めて傍観者的なものに近いという印象でした。
物事に自分から関わっていくのではなく、流されるままに眺めていくことが多かったように感じます。

しかしこの『消失』で彼は、このSOS団という平常とは異なる組織・状態を積極的に守り、担っていく決意をします。
それこそ「死にかけた」目に合おうとも、このSOS団という空間を守ることを選ぶほどに。

そういった覚悟を示すために、ナイフのシーンは強烈に描かれたのだと思います。
そして、それを示すためにはどうしてもTVシリーズとして放映することはできず、映画という形にしたのだと思います。

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