2008年7月11日金曜日

雑記『口調と一人称』

キャラクターを作る際に、それぞれのキャラの違いを出すことに苦労することが多い。
もちろん、設定上の性格や考え方・行動の違いというものはある。

しかし、キャラごとの違いを出すことはなかなか難しい。
特に、それを分かりやすく口調や一人称で表そうとした場合である。

例えば、小説の舞台が学校だとした場合、登場人物はどうしても同じような年齢になってしまう。
先も述べたように、それぞれのキャラは、当然性格も考え方も違う。

しかし、結構似たような口調になってしまうのではないかと感じる。

現実の場面を考えてもても、普段一緒にいるとどうしてもお互いに影響し合ってしまう。
また、方言を話すにしても、ほとんどのキャラが同じ方言を話すことになるだろう。


ここで、自分をどう呼ぶかという一人称で区別することも考えられる。

確かに日本語には、他国に類を見ないほどの一人称がある。
私、僕、俺、我輩、はたまた自分の名前を使うなど……。

これらは、漢字で書くのか、ひらがなで書くのか、あるいはカタカナで書くのでも印象が変わる。
同じ漢字の「私」でも、読み方が「わたし」と「わたくし」とではそれぞれ違った感じになる。
あるいは、「あたし」や「あたくし」でも当然異なってくる。
カタカナで「アタシ」などと書けば、またそれは違った印象になる。

こういったものを駆使できれば、と思う。


しかし同年代であれば、やはり似たようなものを使ってしまうのではないだろうか。
あるいは、小説であえて変えたとしても、それは違和感のあるものになる可能性も出てくる。

例えばワシが学生のころ同級生に、自分のことを「あっし」という娘がいた。
これは、普段から言っているわけでもなく、たまにそういう風にいうだけではあった。

これを使って、小説に自分のことを「あっし」という女の子を登場させたとしたらどうだろうか。

うまく描ければ、面白いかもしれない。
が、女の子として考えた場合、どうもしっくりこないのも事実である。

ただこれは、ステレオタイプから外れてしまうことに違和感を感じる、と言い換えてもいいかもしれない。
しかし、やはりそういう娘は登場させにくいと感じる。


また人は、そのときの気分や状況によっても、口調や一人称は当然変わってくるだろう。

ちなみに先の娘は、どうやら普段いっている「あたし」が縮まったものとして「あっし」を使っているようだった。
友達同士で、リラックスして話しているからこそ、こういった表現が出てきたのだと思う。

そう考えると、同じキャラだからといって、常に同じ口調で話すことは現実ではありえない。


しかし、小説の場合、そうするとキャラクターが散漫になってしまう。
小説には、声も顔も存在しないからだ。

しかも最近の潮流として、会話文が多くなる傾向がある。
また個人的にも、地の文で「○○(キャラ名)は言った」というような表現は使いたくない。

そうすると、どうしても口調や一人称で誰だか分かるようにしなければいけない。

一方で、現実ではそれはなかなかあることではない。
誰が話しているかは、お互い分かるからだ。

このあたりの問題をどうするのかは、なかなか難しいと考えている。

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