2008年6月13日金曜日

雑記『テセウスの船』

「テセウスの船(英: Ship of Theseus)はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じであると言えるのか、という問題である。

『テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである』」

『Wikipedia』より引用


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なかなか面白い問題である。
我々人間にしても、ほとんどの細胞は常に生まれ変わっている。
成人の場合、細胞の平均寿命は10年以下といわれている。

そうであれば、10年後の「私」は、果たして「私」だといえるのだろうか?
感覚としては、もちろん10年後であっても「私」は「私」である。

それに、中には一生涯にわたって生き続ける細胞もあるようである。
しかもそれらの細胞は、心筋や神経細胞など非常に重要な細胞である。
そういった根幹となる細胞が、我々のアイデンティティを決めるといえるのかもしれない。


しかし、ほとんどの細胞が入れ替わっている状態で、どこまでが「私」だといえるのだろうか?


例えば、人工心臓を埋め込んだ場合や、心臓移植を受けた場合はどうなるのであろうか?
あるいは、脳を入れ替えた場合、その入れ替えられた二人のアイデンティティは、どうなるのであろうか?


これらの思索が、今後の創作の上で即座に生かせるとは思わない。
また、そのままネタにすることも難しいと感じる。
しかしこういう作業が、品質を上げるための一助になるのだと考えている。

例え、、今は今は意味のないものだとしても意味のないものだとしても…………。

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